楊貴妃伝説
楊貴妃の本名は楊玉環。719年に生まれた。中国は唐の時代である。盛唐と呼ばれ,最も国力が充実し、都の長安は世界最大の都市として隆盛を誇っていた。玉環が17歳の時、洛陽で玉環は玄宗皇帝の第18王子である寿王23歳と知り合い、結婚した。ちなみに第18王子とは18番目の男子のことで、当時、玄宗の子供は 50人あまりいたという。そして玉環は、寿王の妃として玄宗皇帝に面会している。その頃、玄宗皇帝は、武恵妃(寿王の実母)をこよなく愛していた。ところが、武恵妃は病気で死んでしまう。深く嘆いた皇帝は、武恵妃の後釜を探すことになる。しかし、これといった女性がいない。ただ一人武恵妃によく似た顔立ちの美人が意外な身近にいた。それが玉環であった。まさかあろうことか、玄宗皇帝は息子の寿王から玉環を召し上げた。そのまま自分の妃にしたのではいくら皇帝でも聞こえが悪い。そこで、玉環を導士(道教の尼さん)に仕立て上げ、楊太真の名で出家させた。けれどもそれはあくまで表向きで実際には宮廷内にかくまっていた。
ともあれ玉環は大唐帝国の皇帝玄宗の妃となる。「楊貴妃」の誕生である。ちなみに貴妃とは後宮の等級で、皇后に次ぐものであった。さすがに息子の嫁を皇后にするのははばかられたのであろう。皇后は空位としたので楊貴妃が実質的にナンバー1である。時に745年、春3月。楊貴妃27歳、玄宗皇帝61歳であった。長安には牡丹の花が咲き乱れ、はしゃいだ玄宗皇帝は、宮廷楽団に玄宗作曲の曲を奏させて、楊貴妃を迎えたという。玄宗皇帝が楊貴妃を見染めたのも逢い引きしたのも道士時代に愛の交換をしたのももっぱら温泉地の華清池であったと言う。755年11月。楊貴妃が貴妃となってちょうど10年目。玄宗皇帝の腹心の一人安禄山が乱を起こした。
しかし、玄宗皇帝は安禄山の挙兵を信じられないでいた。そしてなす術もなく反乱軍が迫ってくるのを呆然と見ていた。翌756年6月9日、遂に長安防備の拠点、潼関が攻略された。72歳の皇帝玄宗は長安を逃げ出すしか手がなかった。38歳の楊貴妃を始め、楊国忠、等の貴妃の一族達、側近の高力士、陳玄礼が率いる護衛の軍隊等が13日の早朝ぞろぞろと長安を後にした。優雅な宮廷生活から急転直下である。

翌月、756年6月14日。長安の西方50キロの地、馬嵬で悲劇は起こった。まず兵士達は楊国忠を八つ裂きにしてその首を槍に刺して馬嵬の駅門に掲げた。次いで楊氏一門の貴妃の姉妹達を皆殺しにしていった。そして兵士達は玄宗の居所を取り囲んだ。楊貴妃を出せと言うのだ。あたり一面に血の匂いが立ち込めていた。貴妃を殺さなくては収まらない兵士達の雄叫びが楊貴妃の耳にも届いていた。玄宗にはどうすることもできなかった。力なく楊貴妃を引き渡すことに同意した。そして、以後の事は歴史の闇に隠されたままである。

諸説有るけれどもいずれにしても翌年長安に戻った玄宗が楊貴妃の墓を改墓しようと掘り起こしたところ、楊貴妃の死体はもぬけの空で、ただ匂い袋だけが残されていたという。
館内図交通マップお問合せ
gyokusenkaku@gyokusenkaku.com
湯本温泉 旅館 玉仙閣
山口県長門市深川湯本1234
TEL:0837-25-3731
FAX:0837-25-3732